2021年07月20日

2021年07月19日

0076 土用・海の日

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淮南子 D

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      遺     守
      萬  而  一
      方     隅

一隅を守りて、万方を遺(わす)る。

<注>万方: あらゆる方面。すべての方面・種々の方法・全ての手段。


<管 見>
一か所或いは一面・一方の隅だけに神経を集中していると、その他のことがお留守になってしまう。
つまり、一部のみに集中していると全体を把握することができず、失敗・危険等を招いたり、災厄などの場合には周章狼狽するばかりで、咄嗟の行動に支障をきたす結果となる、というのだ。
然も度し難いのは、その悪い影響・結果は、無関係な人たちをも巻き込むのである。

ソクラテスの言葉に「無知の知(自覚)(人間は、広く・複雑なこの世を知ることは容易ではないのに、全てを理解していると過信しがちだ)というのがある。
言い換えれば、「自分自身が無知な状態であることを自覚する」ということで、人としてその年齢に即したまともな言動を知り、身に付けることに努め、実行できるようになれ、というのだろう。

ところで、「無知は幸せ」という言葉は、よく世間で言われ耳にするけれど、
  「当人」自身は幸せなのかもしれない。
だけど、
  「当人」以外には大変な支障(迷惑)を及ぼしている。
なのに、「当人」には加害者意識というものが皆無なのだから、手に負えない。

また、「無知」というほどでもないが、身近な「小智()の者」を例に考えてみると、一般常識からすれば、「おらが村の雑草の蔓延った丘(おか)」が、気高い富士山だと思い込んでいるのに似て、その様は滑稽さ・阿呆らしさを通り越して哀れすら覚える。

とはいえ、周囲は「忠告が仇となる」ことを周知なので、誰も当たり障りなく接している。
そのことも知らずに、当人は皆と和合どこらかリードしているつもりなのだ。

だから、陰で顰蹙を買っても、平気で同じことを繰り返して憚らないのである。

類語に、「近視眼的(発想・考え・判断・・・)」・「木を見て森を見ず」という言葉がある。
ある微小な部分のみで考え・判断・実行すれば、結果は火を見るよりも明らかであろう。

愚生のつむりの髪は、かなり以前から床屋に行かず自分で剃るけど、それも十日に一度位だ。
なので、「おらが村の丘(おか)」を「他山の石」として、「心の乱れ髪」を剃ることに努めたい。


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2021年07月18日

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2021年07月17日

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2021年07月16日

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2021年07月15日

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2021年07月14日

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2021年07月13日

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2021年07月12日

淮南子 C

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        不   知
        知   遠
        近   而
遠きを知って、近きを知らず。
遠方のことは解っていても、手近なことは解らない。
他人のことはよく見えるけど、自分自身のことは見えない。

<管 見>
見る・聞(聴)く、ということについて考えてみると、他人の出来事は冷静に見たり聞いたり出来るのに、自身のことになると沈着冷静にとはいかない。
特に、いざという時とか、咄嗟に判断して言動しなければならない時には、普段通りの自分らしさが果たしてどれ程取り出されるか、となると些か心細い限りである。


特に自分自身の全てを見るということは、先ず不可能であろう。

また、自身の話していることを冷静になって聞くということも、容易ではない。


即ち、見る・聴くができないのだから、他の感覚も然りだ。

特に省みる事の無い人は、自ら或いは身近なヒト・モノ・コトについての正確な実態を把握できていない。


それなのに、一番困るのは手前勝手な性分を直そうとしない。

それどころか、足元も見ずに流行もの・ブランドものなどを追い、その質より名で求めたりする。


また、佞人しか認めないのに、自身は有能だと何処までも誇って憚らないという、自己中心的な生き方を捨てきれないという厄介な輩もいる。


「自分の盆の窪は見えず」という言葉がある。

然し、エゴイストは「己の心身全体は見えず」或いは「自らのことは見て見ぬふり」なのだろう。


やはり、ただ馬齢を重ねるだけでは駄目だ、ということだろう。

人それぞれには、得手不得手はあろうし、能力にも各々の差は当然あるだろう。
でも、どんな時にも日頃努めを怠らなければ、一升瓶には一升しか入らないけれども、さてという時にはその一升瓶分の力が己の身や、人様のために働き、凌いでくれる筈である。

所詮、自身のことを正確に把握でないのであれば、中身を満たすことに日々精進するしかあるまい。

それを信じて、己の道を歩き究めようではないか。
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